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民と公の一般理論

事業仕分、指定管理者制度、駐車場の有料化・・・小田原ではそんな話題が盛んだ。

入り乱れた議論で、全体に筋の通った議論にならない混乱状態に思える。要するに「公と私」の関係に集約されるべき部分項だ。

公と私、一例として国と私企業の関係でも歴史的には変遷してきた。JRはすっかり私企業の様態だが、少し前までは、お役所仕事の最たるものだった。郵政が、どっちつかずで、ふらついている。古くは、製鉄や運輸も国営だった。ペリカン便の日本通運が、元国企業であった事を知る人は少ない。

アメリカでは民営の陸軍学校があったりする。刑務所を民営化したり、駐車取り締まりの一部を民間でやったり・・いろいろだ。

よくよく考えると、税金払うのと、NHKの視聴料を払うのと、国民年金を納入するのと、民間の保険料を支払うのと、個人的には、何がなんだか、同じような違うような・・良く分からない。

もともと、「公」なり「国」なりは、歴史のどこかでの発明品である。市町村なり県なりも、歴史は古くはない。NPOでも、独立行政法人でも、指定管理者でも、近年できたての発明品である。

そんな発明品の実体のないものを、実体があるように思い込んで、それらの間の関係を妙にいじくっている議論が、事業仕分けだったり、民営化論だったり、市民協同論だったりする。

もともと、私と公は連続的で、流動的なものだ。一人で自分部屋にいれば、「私」の空間だが、家族となると、すでに「公」は始まっている。夫婦の関係でさえ、私でなく民法という「公」に繋がる。

企業がすべて金儲け主義で、行政はみんな非能率で、市民団体はみんなばらばらで・・・とか、定型的イメージで論じるのが一番いけない。

社会貢献が基礎の企業もある。ソーシャルビジネスと言う手法も育ちつつある。行政マンの中にも企業家精神のある人もいる。企業でも大きいとお役所以上に、硬直的な組織形態をしたものもある。儲けすぎで非難された財団法人もあった。

公と私は、表面的な法律論や、組織論では括れない。新たな公と私に関する一般理論が必要な時代になっている。

現場では、公も私も関係ない。まずは自然があって、現場の問題がある。森林の保全作業などを例にとってみよう。時には、同じ林分を、市民団体と、森林組合と、個人企業と、国や県が入り乱れて作業をする。

あまり大きくて、市民団体の手に負えない巨木があると、組合や企業にまわす。経済的に回る部分は企業が請け負うが、残りの隙間を市民団体がこまめに分担したりする。ようするに、森をまもるのが大切で、誰がやると言うのは、後から工夫してつくっていくものだ。

巨視的には、問題が先に存在して、任意団体でも、NPOでも、組合でも、行政連合でも、なんとか法人ても、適当に制度設計していけば良いのであって、公と私の中間領域があるならば、適当に埋めて行けばよい。

国、県、市町村、企業、市民団体などが、それぞればらばらに勝手に独立して進める。これは、一番いけない。次に、それらが「協同」していく方法を考える。一歩進んでいるが、これはあらゆる混乱のもとで、迷いの世界としか言いようがない。2番目によくない。

一番正しい方法は、現場という、公も私もなく混沌とした問題群から思考上、再出発する事だ。そんな手法を支えるだろう哲学が、古今東西、登場してきて、時代の乗り越えに使われてきた。

それらに基づいて、公と私の一般理論を構築しない限り、世界の混乱は続く気がする。民族紛争でさえも、大きく言えば「公と私」の関係だろう。そして何よも大切で、みんな気付いていない事が、「単位」の事だろう。構造性と集合性との関係もきちんと区別して議論しないといけない。

これから、ゆっくり、これらの一般理論を組み上げてみたいと思う。


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