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業界知と総合知

鎌やらスコップやら草刈り機をもって自然の中で仕事をしていても「業界」が違うと、まるで別世界だ。

同じ森でも「林業業界」の人、「自然保護業界」の人、「里山業界」の人・・・微妙に・・いや決定的に違う。

一番違うのが「草刈り」だ。農業のやりかたは、掃除に近いが、少しは刈り残す。林業は草刈りとは言わず下草刈りと言うが、植林した木の生長を妨げるものだけを刈り取るので、かなり大胆である。造園業界も、里山業界も微妙に違う。清掃業界・・の草刈りは、地面の土だけになるまで、徹底的に植物を一掃する。


自分がビオトープ業界の頭で草刈りをする時は、草刈りは高さと時期にこだわる。もともと草を伸ばすために草刈りをするので、清掃業界のように草刈りをしてはいけない。そのままでは、高くなって多様な植物が生育できなくなるので、はびこりすぎの植物を適当な高さで制限するのが目的だ。残したい植物が種を作ってから、残したくない植物が結実する前に刈り取る。一度に全面を刈らずに、少しずつ刈り取る。昆虫が逃げられるようにするためだ。

刈り払い高さ50センチで、夏に3回・・・とか設計して、草刈りを続けると、良い具合に秋に花が咲いてくる。そんな目的の草刈りの完成型、理想型に達して喜んでいる所に、時に手伝いのつもりで農業業界の人が刈り払いをしてくれると、数年の努力が数時間で駄目になってしまう。

自分が林業頭に切り換えて、人工林で仕事をする時は、かなり大胆にスギ・ヒノキ以外は刈り取ってしまう。材木を引きずり出すために、地面をかきむしるような作業をする。自然保護頭の人には、ちょっと残酷に見えるかも知れない。根やシードパンクさえ残っているなら、また生えて来る事を知っているから林業業界の人は、案外と自然破壊に見えるような事をする。


自然保護頭では、一木一草たりとも手を付けるな・・みたいな


自然保護業界、自然観察業界、里山運動業界、自然再生業界、造園業界、園芸業界、清掃美化業界・・・さまざまな業界がある。そして農業業界でも、在来農業、有機農業、工業的農業・・・微妙に違う細分された世界や派が存在する。

業界・・専門が出来るのは、広く仕事を進めるには不可欠な事なのだろう。人がひとつの業界に属して、それに漬かってしまうと、かなり奇妙な事がおきやすい。農業や、造園業は目的をつきつめれば自然破壊に向かう方向性をもっている。自然保護でも自然再生でも、狭隘な業界知に閉鎖されると、環境破壊の進め役になりかえない。

どの課題領域に、どの業界の知見を適応して、その適応範囲を限定するか・・・さまざまな業界知を使いこなす大きな視野が必要である。その視野を提供するのが「総合学」としての環境学だと思う。環境業界というのがあってはいけない。業界知を打ち破り、手綱にとるのが環境学・・・総合知としての知識なのだろう。


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コメント

草刈りの方法の違いについて、非常に勉強になりました。

先日、実家に里帰りした際、庭の草が気になってしまい、上記、掃除型で抜き取ろうとしてしまったところ、実父に「日差しの反射率が変わるじゃないか!」と叱られてしまいました。しばらく話し合い、お互いの妥協点を探りました。こればかりは、多数決の問題でもないので、なかなか難しい問題ですよね。まずは、様々な手法や視点があることを学ぶことが大事なのだと思いました。また、いろいろご教示くださいませ。

個人的には、このような衝突が生じたときの解決の仕方に興味があります。

判例主義の国の法律を学ぶとき、最初に、法というものは、多様な価値感のぶつかりあいの末に取り決められた「妥協の産物」であると言われます。このことを前提に議論が進みます。その分、時代を追うごとに訴訟を通じて保護される価値が変化していく様が分かり、とても興味深いです。解決への即効性もあります。
一方、(日本を含む)大陸法系の議論の立て方は、まず理念の共有が先行するため、なかなか具体的な内容に踏み込んだ議論がたてにくく、すべてが矛盾なく解決するための曖昧なルールの提示の議論に落ち着きがちです。その分、絶妙なバランスのもとで、社会の秩序が維持されています。

どちらの議論の立て方も優れた部分や問題を含んでいます。
いずれの思考法がいいのかは、その土地に根差した歴史、文化、そして該当する時代の社会事情が大きく関係してくるのだと思います。いずれにしても、まだまだ学ぶことはつきません。

昨今、環境法=行政法とも言われますが、「環境」と名のつく領域は非常に難しい分野であることは確かですね。

投稿: hisayo | 2011年8月22日 (月) 09時10分

価値観も何か根源から生み出されるものと考えると整理がつくかも知れません。


「街の中に森をつくろう」とかのキャッチフレーズで、まちの中に少しでも背の高い草原や小さな森がつくれないか、考えています。絶滅的に草刈りをして土が出てしまうと、確かにヒートアイランド現象の一助になってしまいます。ある程度背の高い草むらは、水分保持をして気温を下げます。また土中に二酸化炭素を多少でも吸収します。

また、そんな草刈りをすると生き物、特に昆虫が増えます。

こんな具合に「生物多様性」や「忠温暖化防止」といった理念を価値観とする頭と、「きれい」といった常識的な美学を価値観とする場合にはかなりのコンフリクトを生じるものです。現場ではかなりの喧嘩ざたです・・・


確かにぶつかる価値観の調整といった側面がほう報や倫理学にはあるとかと思いますか、価値観を絶対固定的なものと捉えてしまうと悪しき「相対主義」みたいな論議になってしまいます。

日本人がもっている草刈りの美学も歴史的にみれば、農耕民族の習性・・といったものから導き出されて習俗レベルに人々に染みついているものだと考えられます。

そのレベルでの大きな調整メカニズムが、どこかで働く場合に、歴史の転換があるのかも知れません。調整メカニズムが働くのに、理念レベルでおきるべきか、現実の技術的調整の中で起こすべきかで、観念論的手法か経験論的手法がが分かれるかも知れません。

自噴は経験論の立場ですので、現場での仮説設定・・実験のサイクルの中で、人を納得させて、観念レベルの価値観も変えていくのが最適方法と考えて実践しています。

草刈り実験・・・ですが、いくつかお試しの事例を、そのうち報告します。・・・・草刈りの手法は世の中を変える・・・? かもです。


投稿: ブログのあるじ | 2011年8月23日 (火) 20時33分

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