知識単位学のブログを始めました

「知識単位学」というブログをはじめました。よろしければ、時々ご覧ください。

知識単位学は本ブログの主がライフワークとして取り組んでいる学問です。既成の学問としては「哲学」特に「知識論」が近いものですが、旧来の哲学にはとらわれず、「全体知」・・「すべてを知る」試みのひとつです。


 断片的な考察を少しずつ積み重ねながら、少しずつ世界を知る「原理」をみつけていく試みをしていきます。

知識単位学のブログ

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階層性世界観

正しい知識をもつための王道は・・・まず、数学をきちんと学んで頭を鍛える。

次に、その力で物理学を学ぶ。当たり前の事を当たり前であると言える頭脳ができる。

次に化学を学ぶ。できるだけ実験をして、どんな出来事も化学反応のひとつだと言う確信をもつ。

有機化学の応用として生物学を学ぶ。命も化学反応であり、遺伝や生理も数式どうりに動いている事を身にしみて覚える。

ここまでの基礎学力があれば、大脳生理学とかはすぐに分かる。どんな複雑な人間感情も、神経回路網でおきている出来事だろうと分かる。

天文学から地球物理、地質学と進んで、数億年単位のスケールを身につける。人類の愚劣の歴史も、その中にきちんと位置づけられるようになる。いつか人類が滅びる事も、地球が太陽に取り込まれていく事も、有りと前の事と認識できるようになる。

こんな順番で物事をきちんと学ぶと、ひとつの世界観をもつ事になる。階層性世界観といって良いだろうか。本当の科学者とは、このような階層性世界観を身につけている人間の事をいう。

すべては物理法則や化学反応である・・・還元主義と言うが、それとは違う。物理も化学も生物学も実験や調査をしつつ学ぶと、還元主義には陥らない。多様性の無限さにすぐ気付くからである。

理科教育、科学教育の目標は「階層性世界観」を次世代にももってもらう事だ。狭隘な部分知、専門という知的病に陥ってしまって、階層性世界観をもっていない科学者や教員も多い。

環境について考え、実践していくには階層性世界観は不可欠である。環境を改善していく「戦略的思考」は階層性世界観から導かれる。

階層性世界観を是非学んで身につけて欲しい。少しは仲間が増えるのだが。きちんとした階層性世界観をもつ人は小数なので、仲間がすくないのだ。

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シンポジウム「地方分権と政策法務」

1月8日

関東大学小田原キャンパスで行われた「地方分権と政策法務」シンポジウムに参加してきた。

基調講演 「地方分権の今後の展望」 益田寛也

鼎談  「神奈川発 地域主権」
    加藤憲一 小田原市長
    小林常良 厚木市長
    出石 稔  関東学院法学部
パネルトーク
    「新政権誕生〜第二次分権改革・政策法務のゆくえ」
    北村 喜宣 山口 道昭  磯崎初仁 出石稔  司会 野本優子

内容を要約して記事にする力もないので、ふと気付かされて事をいくつか記しておきたい。

増田氏の基調講演では、地方議会の質の向上をウェイトを置いていた。行政権の分権化だけでなく、立法権の分権化を進め、地方議会が質の高い政治の場になりうるかが要となるとの論だった。現状を考えれば、一番難しい課題で、一番時間がかかりそうだ。

分権は手段に過ぎず、多様な社会実験と政策競争が要となる。そのため良い事ばかりでなく、分権が時にはマイナスに働く事もある事を踏まえて、長い目で分権を進めなくてはならないとの論は高い視点にたっていると思う。

市長お二人の鼎談は、政策のPRから、自治基本条例制定作業の紹介などから首長の個性と言うものを感じ取れた。加藤市長は、分権というより、「地域主義」に主軸を感じさせるものだった。

パネルトークでは、開成町の露木町長も客席から加わって、様々な分権と地域主義について、現在の動向が把握できるものだった。

気になった論点と言えば、「条例制定権と上書き権」などの用語だ。自治基本条例ひとつ、とっても大きな視点では、きわめて微妙な立ち位置にある「社会的実験」であるようだ。

自治基本条例などの試みを、知識哲学、情報論などの視点で、相対的にとらえて、立ち位置にあった、丁度良いもの作っておかないと、歴史の中で無意味な遺産になりかねない。より高い知識社会への橋は渡しをする一里塚程度に考えた方がよいのだろうか。

聞き取り能力ない私のような者にも、地方分権の大きな動向を、つかませてくれる催しだった。


    

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国際二宮尊徳思想学会

1月5日

店舗や事務所が、業務を開始し始めたので、本日は一日、諸手続やらをこなした。

そのひとつ、報徳博物館にいって「国際二宮尊徳思想学会」の入会手続きをしてきた。年末にどんな資料が利用できるか伺った所、論文集を個別に提供して頂くより、学会の入会手続きをした方が便利なのでは・・と言われて、入会する事にしていた手続きだ。

博物館の近くに住んでいたのだが、このような研究会があるのを今まで知らなかったのは惜しかった。二宮金次郎に関しては、いろいろな講座もあるが、本格的な研究成果の情報が得られるのは少なく、書物で勉強するしかなかった。

自分は、思想家のエピソードとか、来歴とかあまり興味がわかない。それよりも、その人の「思想の核心」に直裁に接したいと思う。その人が、「生涯をかけてひとつだけ言いたかった事」、そこから生涯の行動のすべてが湧き出す泉のような核心に触れたい・・いつも、そう思う。

伝記や、遺訓などをありがたがって遠巻きに尊敬するみたいに扱うのは、思想家に対しては一番の非礼であると思っている。天才的思想家は、同時代に理解者には恵り会えない。先進的故に当然なのだろうが、時代とともに思想の基盤の進化の流れにあずかる後代の自分達には、、それが直裁に可能なのかも知れない。

思想家にとって一番嬉しいのは、その思想の奥義が後代の人々によって理解され、そして、その時代の現実問題解決のために用いられることだろう。

様々な思想家の究極の奥義に直裁に触れたいと思う。膨大な文献の海に埋没するよりも、現実問題と格闘する現場での感覚で接する事により、却って近道が与えられるのではないか。そんな気がしている。

尊徳関係の資料をもう少し集める年になりそうだ。

○ ついでと言っては怒られるが、報徳神社にいってきた。正月5日で、参拝客も少なくない。各種参拝グッズは、どこも同じだが、「分度湯飲み」と言うのが、報徳神社らしい。湯飲みの中と底がサイホンの管で繋がっていて、満杯にしようとすると下から出てしまうというものだ。分度の考えを現物で示すと言う事なのだが、「果て、どうやって焼き物として作ったのか・・?」と、制作方法についてすぐに思いが行ってしまった。

神社仏閣などにいくと、様々なお土産的グッズがある。記念品的なものを手に入れる事はないが、大抵関連の書物や教典や冊子などを入手して来る事が多い。道歌集を一冊いただく。

ここでも御札と並んで、尊徳関係の書物があった。博物館でなく、お正月の扱いに、斎藤清一著、「円相図でみ二宮尊徳の思想」まであるのは、とても良い。報徳博物館の方では常時扱っているので、一度は目を通して欲しい冊子だ。


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○ 記念館では、有名人の絵馬の展示をしていた。誰もが知っているような有名人のなかなか良い絵や書が絵馬にされている。オークションのシステムになっているようで、値段をつけて投票しておくと、一番高値の人に落札れて、チャリティに託されるようだ。それぞれのファンなら欲しいような絵馬がたくさんあった。絵馬も芸術の分野になるのだろうか。

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好きな歴史上の日本人

私の好きな歴史上の日本人は3人いる。一人は平賀源内(1728-1780)。二人目は二宮金次郎(1787-1856)。三人目は大村益次郎(1824-1869)である。

平賀は本草学者・蘭学者と言う事になっているが、簡単に括れない多様な才能の持ち主であった。今で言えば発明家、広告屋、なんでも作家・・と言った所だろうか。

二宮金次郎は、農政家、思想家と評価されているが、経営コンサルタント、行政官とみなす事ができる。自分としては、先進的思想家としての金治郎がその本質だと考えている。

大村益次郎は、医師、兵学者、西洋学者とされている。今で言えば有能な医師が軍隊の創設者となったようなものだ。オペレーションリサーチにあたるような合理的思考で、明治という狂気に形を与えたと言えば良いのだろうか。

3人の共通点は「実務家」である事だ。思想や言葉だけの世界に生きたのではなく、最後まで実務と「物」を動かす仕事人だった。また、一言で括れない「多様な才能」「博物学的知識」の実践者だった事だ。

実務主義と、博物学的知識・・・その二つがそろう思想家である事が自分が好きな理由だ。深く先進的な合理的思想と、実務的能力を兼ね備えた人物は、歴史のなかでも希である。多分、今の世界に一番欲しい人材だろう。

3人とも、時の社会ののトップに立つ事はなかった。それぞれ庇護者となる政治家の下に、その才能を発揮した。そして、それぞれ、その思想の高さ故に、時代に理解される事はなく、当時の社会とは何らかのコンフリクトを生じた。だが世の理解とは別に、後世に残したものは大きい。

三人とも「天才」ではないと私は思っている。思想的天才になりうる資質を実務と社会との関わりに配分したので、天才になり得なかった、「地上で働いた天才」である。

高みに届く天才も、人々の尊敬をひたすら集めるカリスマも、希有だが、それだけでは世は動かない。そのような天才の近くで働いた「実務家」の存在で現実社会の基礎がつくられていく。

大村益次郎を「花神」(花咲かじいさん)と評したのは、司馬遼太郎だが、現代の「花神」となりうるのは誰だろう。ひとりの人物に期待する時代ではない、普通の市民が思想と実務を兼ね備えた、3人の「地上の天才」に近づくしかない気がする。

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