環境・発想の転換 地球にやさしくなんて出来ない・

「環境にやさしく」とか「地球にやさしい何とか」と言う言葉が未だに蔓延している。本気なんだろうか。

特に、子供達の環境イベントで、地球にやさしくなんて言葉が子供達の口から発せられるのは、まるで環境教育が進んでいない証拠にしかならない。

 地球や環境にやさしくなんて出来ない・・・
  自分を大切にするだけだ・・・

こんな種類のイメージが蔓延するのは困りものである。

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まあ、イメージなので、とやかく言う対象でもないのかも知れないが、地球の頭をやさしくなでいいる図柄など、やめてもらいたい。

地球の大きさと、人間の大きさを正確に把握してもらう事は、環境教育の第一歩だろう。それが分かれば、人類がよってたかって何をしようと、人類がほろびようと、天文学スケールの地球には、あまり影響を与えない。それが身につけば、地球にやさしく・・なんて言葉は出てこない筈だ。

次に、地球の大きさと、水圏・大気圏とスケール関係を把握してもらう事が必須だろう。地球温暖化(正確には地球大気圏の乱流化)は、きわめて薄い対流圏の問題だ。「地球君」が熱を出して、体温計を銜えている絵柄など、かなりのお馬鹿だ・・・


さらに、生物相の薄さを地球の大きさと較べたら、生き物がどれほど狭い範囲で棲息しているか分かる。その中で、人類はままた小さな存在てある。

人間が、ゴミや毒物を排出すれば、その薄く狭い範囲で、流動していく。狭い範囲で流動すれば、やがて自分に戻ってくる。環境を損なわない事は、自分の命を損なわない事だ。自分の命を大切にすれは良いのである。

  海は広いな、大きいな・・・

と言う歌があるが、環境を考えれば

  海は、薄いな、小さいな・・
  ゴミを捨てれば、すぐ戻る・・

との歌詞に変えて歌ってもらった方が良いかもしれない。


 「やさしく」と言う言葉には、自分が絶対的優位にたち、自由意思でやさしくしたり、やさしくしなかったり出来るとの意味が言外に込められている。自分の存在を絶対的に固定して、まわりの環境を左右すると言う思想になりがちである。

 大抵の「やさしい」やら「エコ」やらは、できる範囲の小さな事しかせずに、自分の生活の骨格を変えようとはしない姿勢と裏腹だ。エコキャップ集めするより、ペットボトルの飲料は飲まない覚悟をする方がよほど効果がある。マイ箸持参なんかするより、手づかみで食べたらもっと効果的である。省エネではなく、「断エネ」で電気を止めてしまえば、一挙に問題は解決してしまう。・・・そんな事はできないから、免罪符的にやさしいやらエコやらが蔓延する。もちろん自分もそうなのだが・・・

 そもそも自然環境を悪くしない為には、人類が滅びてしまえば良い。もともと、人間が存在して生きるいる限り環境問題は消滅しない。環境問題は、人類存在の「原罪」的な位置にある。人類が生きられる僅かな薄い空間・・・そこで自分が生存する条件を少しでも悪化させない事が環境への取り組みである。環境問題にに取り組む事は「良い事をする」訳ではない。やって当たり前、やらなければ罪、自分が損をして、自らの生存を損なう事だ。

 子供達に、環境にやさしく・・なんて言っていないで、「自分の命が惜しければ、寿命を全うしたいなら、大人が化石燃料を使ってしまうのを食い止めろ・・」と言うべきである。脅しでなく、自分が大切なら、環境の課題にすぐに取り組めと知らせるべきである。

 木にやさしく、動物にやさしく・・・森にやさしく・・・「やさしく」シリーズは、どんどん拡大しているようである。同じ事である、どれにも「やさしく」なんか出来ない。自分を大切にしよう。木の生命に人間の命は支えられている。生き物達に、人類の生命は依存している。動物を損なわない事、森を損なわない事は、自分の命を損なわない事と同値である。圧倒的に巨大な地球と言う存在の中に、対流圏があり、小さな生物相がある。それ全体を少しでも損なわずに、人類がほそぼそでも良いから生き延びるように行動していこう。そう言うべきである。

 環境にやさしく・・キャンペーンを早く止めさせて、「お前ら・・死にたくないなら、ちゃんとしろ・・」キャンペーン変えさせたいと思っている。

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森「づくり」なんかするな・・・

環境編 発想の転換 森「づくり」なんかするな・・・

時代を進めるには発想の転換が大切です。この、環境編発想の転換はシリーズとして、環境分野での世間の常識を打ち破り発想を転換していく持論を述べさせて頂いています。

今回は森「づくり」なんかするな・・・

 森はつくるものではない。
  森の「適正利用」をすれば良い。

森林をどんどん利用して伐ってしまえ・・みたいに捉えられたら正反対です。森は人につくれるものではないと言う事です。

森づくりに凝る有名人が増えたり、「なんとかの森づくり」みたいな運動が近年盛んですが、どうも流行ものは底が浅い・・・

自然な森に戻すにはどんな木を植えようとか、色々工夫したりする事が多いけど、どんなものか・・・理想の森はどんなものとか議論したりするけど・・・人間の勝手にすぎない気が・・

自然の森、原生林は、もともと人が全く手をつけていない森。これが理想だとすれば、森は人にはつくれない。唯一つくる方法は・・「何もしない・」事。できる限り人が手を加えず、近づかなければ森はひとりでに「生成」していく。森はつくれない。作ったら、もう森ではない。

山仕事を少しばかりていると、予測に反する事ばかり起こる。いろいろ、土地に合う樹種を選んで植えてみても枯れてしまったり、いろいろやってみても叶わない事が多い。それで、ほったらかして置くと、奇妙に面白いものが芽生えて来たり、森は分からない。

森林に関する学問は発展途上の学問だ。土壌で起こっている生物相の相互作用、化学反応、樹木どうしの様々な化学物質を通じての相互作用、莫大に存在する生き物の働き・・・水の動き、分からない事だらけだ。勉強すればするほど、経験すればするほど、森は分からなくなる。「なんだか分からん・・」と思っているなら、多分それは森の専門家と呼んで良い。無知なる知。

では、森に対して、人間は何をしたら良いか。それは「適正利用」をする事だ。林業は森の利用だ。森林を畑の一種に開墾して木材を利用する畑だ。畑なら畑で最後まで手をかける。それが森の適正利用である。動物をペットとして飼育して途中で放棄するのはしてはいけない事だ。それと同じに木を植えて、ほったらかしにしたら動物愛護法ならぬ、「植物愛護法・・」に反する。(そんな法がないのが不思議だが)

食べられないほどよそって捨てたら、人道に反する。手入れできない程に植えてほったらかしにしたら、人工林という畑はひどい環境になって人に仕返しをする。30年から50年ほど前に、後の事も考えずに人工林という畑を「作って」、使わないから・・と言って、ほったらかしにした犯罪行為が今の日本の森の問題である。被害を被ったのはクマだったり、猿だったり、無数の土壌生物だったり、海の魚だったり、麓に住む人達だったりする。

最後まで、きちんと人工林という畑を管理して、よそったものを食べるように、最後まできちんと利用する。それが、人のするべき事である。作った以上、使う「義務」があるのではないか。

森は出来る限り触らない・・・これが第一原則。ただ、森を利用しなければ人は生きていけないので、最低限生きるために、最小限利用する。利用するならすべてきちんと利用する。これを「森の適正利用」と呼びたい。使いたい樹種があれば、一番育ちやすいところに植える。いや植えないで、芽生えを選んで残す。木の競争に少しだけ手をかしてやる。

日本中に竹が繁茂して、とんでもない状況になっている。「森づくり」をしないで、自然のままにしておいたら、こんなになるのではないか。・・・竹が繁茂している所は、もともと人間が利用していた畑としての森である。利用して隙間をつくる事により、竹に有利な状況をつくったために竹が繁茂している。

本来の森・・・生態系として安定した森林は、なかなか他の生物の侵入を許さない。外来植物がはびこるのも人がかき回して、それらに有利な状態をつくったからだ。しかし、安定した森でさえ、周囲全面を人工林やら外来植物で囲まれたら、壊れてしまう。

生態系とし安定した森は、当然手をかけずに自然更新していく。広葉樹でも植えれば、数百年はその樹種の森になるかも知れないが、自然更新しなければ本来の森ではない。森が自然更新したとしたら、どんな植生になるかを人が考えてみたものを「潜在植生」と言っているが、森の生態系は本来は「非線形現象」で、偶然性や微少な地形条件などの初期条件が強く働く。だから、本来良く分からないものだ。人の計らいを超えて、なるようになったものを森と呼ぶとすれば、人が意図したものは森ではない。

森づくりは早くやめて、森の適正利用をしてもらいたい。適正利用として、どうしても必要な木があれば植えれば良い。畑をつくれば良い。お椀が欲しければ、ケヤキを植えれば良い。そのかわり植えた以上、かならず使うように子孫まできちんと伝えるべきである。そして、作ったお椀を大切に使えば良い。

使わないなら、畑を森にもどそう。技で畑にしたものだが、自然にもどすには高度な技が必要になる。うまくギャップを作ったり、周囲の森から遺伝子源が移動するように計らう。移動は、鳥やら虫やら小動物やら風やらがしてくれる。広大な面積範囲での、遺伝子源の分布を適正にしていく中で、元にもどすと言う罪滅ぼしも可能になる。

そういう大きな計画の中で、個々の林分の「適正利用」を施業していけば良い。利用であるから、どんな畑にするかは、人間の好みで良い。ただ慎ましい態度と、最小限の利用をしようとの原則を守っていきたい。

「理想の森」とか「森づくり」とか「なんとかの森」とか看板にしている人達には、あまり近づかないようにしている。なんだか多少でも生態学やら土壌について学んだ者としては恥ずかしいからだ。

森に捨てられる木で利用できるものなら、少しでも丁寧に使って、その営みと、自然の生態系の営みがうまく釣り合った所で、森を安定させておけば良い。

森は美しいものでも、理想のものでも、何ものでもない。良く分からない、とんでも無いものが森である。人に分かる範囲で、出来る事は「適正利用」だけだ。

森づくりは、早くやめて、森の適正利用をしてもらいたい。

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